2012/06/25

スポーツジャーナリズムに関する極私的つぶやき。


学生時代は写真の“Number”なんかをよく読んでいたが、今はとんとご無沙汰になっている。


スポーツジャーナリズムが嫌いになったからだ。


どこが嫌いなのかと言うと、この世界ではとかく“スポーツ選手=人格者”のように描かれることが多いからだ。


特に競技で優秀な成績を残す選手ほど盲目的に立派な人のように書かれがちである。


やっぱり、
 “成績が良い→厳しい練習に耐えている(に違いない)→
  精神力が強い(んだろうきっと。。)→立派な人(じゃないのかなぁ?)”
という理屈からだろうか?


ところが、おっさんがその実像を知る数人の“偉大な”スポーツ選手達は大抵ロクでもないヤツばかりである。


確かに、中にはホントに立派な人もいるかもしれない。


しかし、とんでもない輩もいっぱいいるということもまた事実だ。


しかし、そういう人について取り上げられているのはほとんど見かけない。


優秀な選手という肩書きだけを説得力に、他の部分まで素晴らしい人間であるとして描く。


こんなのジャーナリズムなんて言えるの?


金メダリストよりジョギング好きの市役所のおっちゃんの方が何倍も人格者ということも往々にしてあるはずだが、この世界ではそんなの無視だ。


所詮、金にならないから。


彼らが描くスポーツ選手の周りには美談や、人生の教訓にも通ずる感動的なエピソードが何故か山盛り状態である。


これはもはやフィクションと言ってもよいのではないのか?


でも、あの世界で飯食ってる人達は絶対にジャーナリズムって言い張るだろうけど。。。


だから、あのようなものは半ばフィクションと捉えてたまに接する分には良いのかもしれないが、ズップリと埋まるのは頭が麻痺を起こしそうで恐い。


何かというとスポーツ選手の逸話を持ち出して説教してくるオヤジは多いし、また企業もろくに人物も見ないでスポーツ経験者を優先して採用するような時代が続いていたことも事実である。


ところがそれよりも更に許せないのが、選手自身の中にもスポーツジャーナリズムでは“絶対に綺麗に描かれる”ということを逆手にとって意識しながら発言をしている確信犯がいることである。


有名な某女子マラソン選手の「自分で自分を褒めたい」ってのなんか、あんなの絶対あらかじめ“レースの後にこんなコメントしたらカッコいいだろう”って目論んでたに違いない。


おっさんはそんなことが聞きたくない。


そもそもまだそんな後々のことを考えてるような余裕があったのか?


何か腹黒さのようなものを感じるのである。。。


だからその2〜3年後、高橋尚子が出てきて女子マラソン第一人者の座を彼女から奪った時はホント胸のすくおもいだった。


それに比べて同じマラソン選手のものでも、バルセロナオリンピックのマラソンで他の選手に踵を踏まれて転倒しながらも8位入賞でゴールした谷口浩美選手の「こけちゃいました!」という有名なコメントには感動した。


当時、谷口選手は前年の世界陸上で男子マラソン初の金メダルを獲っていた最強ランナーだったと記憶しているが、言い訳がましいことは全くなくて非常に清々しかった。


まさにスポーツマンである。


哲学みたいなことではなく、勝負の厳しさを生々しく伝えているところに非常に好感が持てた。


有森裕子とは大違いだ。


あっ! 名前言っちゃった!




とにかく競技でのパフォーマンスと人格は全く関係がない。


原辰徳じゃないけど“スポーツ選手=人格者”とばかりに無条件で礼賛するような見方は前時代的だとおっさんは思うのである。。。


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2 件のコメント:

  1. スポ―ツに打ち込む動機付けが皆違うんで
    しょうがないと思うけど・・・
    確かに有○のコメントは鼻にはツイタ(笑)

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    返信
    1. fuyuさんコメントありがとうございます。
      お返事が遅れました。
      スポーツは周りの外野がプレーしている者以上にワーワー騒いで銭にかえてるのが許せんです。
      言ってはなんですが、少し前の女子ボクシングのし◯ちゃんなんて素人目にみても明らかにオリンピックは無理でしたよね。
      散々周りがおだて上げてる姿はホントひどかったです。

      削除